小場 恒吉(おば・つねきち)
小場 恒吉(おば・つねきち)
■1878(明治11)年誕生~1958(昭和33)年没
秋田市の士族の家に生まれ、東京美術学校(現東京藝術大学)に学ぶ。
後に同校図案科、および芸術学科の教授を歴任する。
また、大正元年よりたびたび朝鮮半島に渡り、高句麗古墳壁画模写、楽浪古墳発掘、慶州南山仏蹟の調査等に携わった。
紋様研究に生涯をささげ、この分野の泰斗として第一回日本芸術院恩賜賞(昭和25年)、紫綬褒章(昭和30年)を授かる。古寺修復保存の重要性を唱え、法隆寺、平等院鳳凰堂の修復作業に従事する。
この他、東大寺法華堂、興福寺、醍醐寺、日光東照宮などの模写復元にかかわり、その道筋を開いた。
出典:『紋様学のパイオニア』2005(平成17)年5月改訂/佐々木榮孝 編著
1878年(明治11年・1歳) | ■1月25日 秋田町亀ノ丁堀反町に於いて、父新吾( 牛丸重明温斎次男 )母イウ( 小場家四代久道長女 )の長男として生まれる。恒吉と命名。 ■9月13日 父新吾( 小場家五代 )病没。享年22。「安政4 (1857 )年1月25日生」法名 善明誠心居士 菩提寺 安養山光明寺に埋葬。 |
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1885年(明治18年・8歳) | ■4月 秋田師範学校附属小学校( 現秋田大学教育文化学部附属小学校)入学。 |
1887年(明治20年・10歳) | この頃から狩野派絵師小室秀俊恰々斎( 母は小場家二代愛米の長女 )に師事。 |
1891年(明治24年・14歳) | ■4月23日 母イウは仙北郡西明寺村に於いて没す。 享年31。「 文久元 (1861 )年7月6日生 」 法名:花屋明光大姉 菩提寺安養山光明寺に埋葬。 |
1893年(明治26年・16歳) | ■4月 秋田県立秋田尋常中学校( 現秋田県立秋田高校 )入学。 この頃から、 真斎・源六橋士などの雅号を用いて絵の模写を行う。 |
1898年(明治31年・21歳) | ■9月10日 東京美術学校日本画科入学。 |
1900年(明治33年・23歳) | ■春 南都薬師寺の梁組や薬師如来座像等のスケッチを残す。 |
1901年(明治34年・24歳) | ■4月7日
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1902年(明治35年・25歳) | ■8月
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1903年(明治36年・26歳) | ■宇治平等院鳳凰堂装飾紋様模写復元調査研究を継続。 ■6月 卒業作品「 美術学校建築設計図 」作成。 ■7月3日 東京美術学校図案科建築装飾科卒業。 ■8月5日 平泉中尊寺装飾紋様調査。 |
1904年(明治37年・27歳) | ■10月29日
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1905年(明治38年・28歳) | ■10月18日 日光・足利に紅葉スケッチ旅行。 |
1906年(明治39年・29歳) | ■4月9日
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1907年(明治40年・30歳) | ■12月27日 秋田県立秋田工業学校退職。 |
1908年(明治41年・31歳) | ■1月8日
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1909年(明治42年・32歳) | ■7月中旬
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1910年(明治43年・33歳) | ■夏 帝室博物館美術部長今泉雄作からの依嘱により、醍醐寺五重塔内の聖経胎蔵界曼荼羅の模写復元に従事。 |
1911年(明治44年・34歳) | ■6月22日 榮山寺八角堂装飾紋様模写。(8月9日迄) ■8月11日 法隆寺百済観音光背装飾紋様模写。(8月22日迄) ■8月23日 同上 玉虫厨子装飾紋様模写。(8月26日迄) ■8月28日 薬師寺四天王装飾紋様模写。(9月4日迄) ■12月26日 伊東温泉にて越年、榮山寺等の装飾紋様模写復元図仕上げる。 |
1912年(大正元年・35歳) | ■5月29日 「藤原式繧繝彩色手箱」制作。( 8月2日完成 ) ■9月12日 東京美術学校助教授昇任。 ■9月18日 学術調査研究のため朝鮮に60日間出張。( 12月8日帰宅 ) 江西郡遇賢里(平壌付近)高旬麗古墳三基の内二基調査。四神・天女・仙人・唐草・蓮華紋様等の壁画を模写。更に鶴林面肝城里の玄室を持つ二大壁画古墳を調査模写。 ( 以後、 朝鮮に於ける古墳壁画の紋様調査研究は昭和20年迄続く ) |
1913年(大正2年・36歳) | ■1月13日 朝鮮滞在中に収集した朝鮮古代瓦四十二個を東京美術学校に寄付。 ■1月27日 「藤原式繧繝彩色手箱」を以て美術新報社から 第一回目の賞美章を受賞。 ■7月18日 大久保鐵作の媒酌に依り園部全助長女キヨ(明治25 (1892)年4月12日生、22歳 )と結婚 ■8月2日 薬師寺四天王装飾紋様模写。(9月4日迄) ■12月26日 学術調在研究のため朝鮮に60日間出張。( 10月2日帰宅 )京城 ・ 開城の古墳壁画。 及び鎮南浦海山里の狩猟塚古墳の壁画模写。 |
1914年(大正3年・37歳) | ■4月1日 長男晴夫誕生。 ■4月8日 東大寺大仏殿へ下賜の香炉箱図案。 ■5月5日 大正博覧会陳列装飾調査委員を嘱託。 ■5月9日 知恩院の勅額を図案。(8月上旬完成) ■6月19日 遠山規方来校、 佐竹銅像建立の事で相談受ける。 ■6月24日 祖母カネ(小場家四代久道後妻)東京巣鴨の自宅で没す。享年79。菩提寺安養山光明寺に埋葬。 ■7月3日 関野貞から朝鮮平安南道古王陵調査の見積依頼を受ける。この時、朝鮮装飾古墳調査専従を切望する。 ■8月31日 学術調杏研究のため朝鮮に90日間出張。(11月30日帰宅 ) 江西付近の双楹塚・大塚、鎮南浦海山里大蓮華塚・星塚古墳紋様模写。 ■12月
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1915年(大正4年・38歳) | ■2月16日 正木校長から再三に亘っての要請で佐竹銅像の設計を受諾。 ■4月3日 正木校長、高村光雲教授と共に秋田へ出張、銅像建立地久保田城本丸跡を視察。持参した七葉の設計図案を以て検討。 ■4月4日 午後3時から本丸跡に於いて建設委員会開催、現地と図案とを照合して図案を決定。 銅像制作担当は、総監督教授高村光雲、原型教授白井雨山、助手同校彫刻卒松浦順吉(絵師 小室怡々斎六男)、鋳造助教授津田信夫、設計助教授小場恒吉。 ■7月21日 東京市献上の衝立化粧箱図案 ■8月19日 銅像台座工事監督のため秋田へ出張。(8月28日帰宅) ■10月17日 佐竹公銅像完成。 この日除幕式には津田助教授が校長代理として参列。 |
1916年(大正5年・39歳) | ■1月12日 佐竹義生公墓所設計。 ■2月19日 美術学校が宮内省依嘱の御紋付三ツ組金銀鉢図案出来島田教授に渡す。 ■4月12日 本科四年生の実地指導のため京都・奈良へ三週間出張。(この時、醍醐寺三宝院・当麻寺曼荼羅堂内厨子と須弥壇装飾紋、吉野水分神社装飾金具等を調査) ■8月15日 東京美術学校退官 ■8月29日 朝鮮総督府嘱託として就任。 ■9月22日
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1917年(大正6年・40歳) | ■3月15日 大同江の南 晩達山麓破邑の石塚古墳を調杏。(21日帰宅) ■3月26日 次男豊次誕生。 ■4月28日 楽浪古墳群調査のため出張。(7月15日帰宅) ■9月25日 平安南道順川高句麗古墳調査。(10月13日まで) ■10月26日 扶余郡陵山里百済王陵発掘調査壁画模写。( 12月27日帰宅 )・翌7年も継続調査。 |
1918年(大正7年・41歳) | ■10月15日 全羅南道羅州付近の壁画古墳を踏査。 ■10月21日 深夜「妻キヨ急病」の電報に接し、急遽出立翌22日午後9時半帰宅。 ■10月27日 妻キヨ京城の病院に於いて没す。享年27。・菩提寺安養山光明寺に埋葬。 |
1919年(大正8年・42歳) | ■3月31日
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1920年(大正9年・43歳) | ■扶余郡百済王陵壁画紋様模写。 ■美術学校が宮内省依嘱の御紋付金銀盃(三ツ組)を図案。 ■8月26日 石井忠良(元大曲町長)長女トヨ(明治22 (1889)年2月24日生 )との婚姻を届出。 ■10月30日 長女カネ誕生。 |
1921年(大正10年・44歳) | ■10月1日 朝鮮総督府学務局古蹟調査勤務となる。 |
1922年(大正11年・45歳) | ■1月2・6日 浅川巧・柳宗悦等と逢う。慶州古王陵発掘調査状況や出土遺物金冠玉類等に就いて説明。 ■3月31日 朝鮮総督府古蹟調査事務を嘱託、 博物館協議委員となる。 ■4月19日 第一回朝鮮美術展覧会審査委員となる。 |
1923年(大正12年・46歳) | ■4月18日 第二回朝鮮美術展覧会評議委員嘱託となる。 ■5月2日
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1924年(大正13年・47歳) | ■5月20日
■11月1日 長女カネ京城府に於いて猩紅熱に罹り没す。亨年5 。 ■12月1日 朝鮮総督府古蹟調査事務を解かれる。・古蹟調査委員嘱託となる。 |
1925年(大正14年・48歳) | ■2月14日 京城府黄金町の居宅に於いて小場家系図を編纂。 ■5月22日 第四回朝鮮美術展覧会評議委員嘱託となる。 ■5月下旬 平福百穂来鮮、 楽浪壁画古墳を案内。 ■6月5日
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1926年(昭和元年・49歳) | ■4月8日 朝鮮古蹟調査委員用務に依り朝鮮に出張。(5月1日帰宅) |
1927年(昭和2年・50歳) | ■1月
■11月9日 三男友雄誕生 |
1928年(昭和3年・51歳) | ■2月2日 東京美術学校関係者を以て『美術学会』を創立。理事に選任。 ■3月4日 秋田市章『矢留の図案』井上市長に送る。 ■5月25日 『六角紫水の楽浪漆器研究』を執箪、日本漆工会々報に発表。 ■6月8日 秋田市の紋章制定。告示第26号。 ■10月 帝国美術院展に『飾手箱』出品。 ■11月 正倉院御物曝涼拝観許可を得て奈良に出張。 |
1929年(昭和4年・52歳) | ■3月18日
■11月11日 正倉院御物曝涼拝観許可を得て奈良に出張。 |
1930年(昭和5年・53歳) | ■5月3日 江西郡江西邑古墳の壁画模写。(2カ月間 ) ■11月 楽浪梧野里18・19・20号墳を発掘調杏。 |
1931年(昭和6年・54歳) | ■1月 『世界美術全集・別巻一・壁画編』(平凡社)に共著。 ■2月 『東洋史講座・第十巻・朝鮮美術工芸編』(雄山閣)に共著。 ■7月 平壌府立博物館設立計画を指導。 ■夏 地元の要請で、榊田清兵衛顕彰碑建立助言。古四王神社修復工事指導のため秋田へ。 ■9月
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1932年(昭和7年・55歳) | ■2月20日 『世界美術全集・別巻11・図案編』(平凡社)に共著。 ■8月 慶州南山の仏蹟調査。 ■9月14日 楽浪王光墓(貞柏里127)南井里119・120その他石巌里266号墳を発掘調査。(11月5日迄 ) |
1933年(昭和8年・56歳) | ■秋 『楽浪貞柏里8・13・17・59・122・219・221・227号墳を発掘調査。 ■12月12日 朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存委員に委嘱される。 第1回総会に出席。 |
1934年(昭和9年・57歳) | ■秋 楽浪将進里30・45、 貞柏里19、 石巌里212・255号墳を発掘調査。 ■11月 東京中野区江古田に転居。 |
1935年(昭和10年・58歳) | ■7月27日 藤田亮策と共に関野貞を見舞う。同29日(東洋建築史学)関野逝去。享年69。 ■9月23日 朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存委員会第二回総会に出席。 ■9月24日 満州国通化省輯安県高句麗古墳群・古城跡調査に参加。 ■秋
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1936年(昭和11年・59歳) | ■2月 慶州四天王寺講堂跡・南山 の仏蹟調査。 ■秋 大同郡内里・土浦里・南京里・上五里・高山里に分布する高旬麗古墳群中15基を調査 。 |
1937年(昭和12年・60歳) | ■2月 軸装白描『醍醐寺五重塔金剛界大日如来・附賛』浄写。 ■5月2日 慶州南山仏蹟・仏国寺・永川琴湖の廃塔等調査。 ■5月 朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存委員会第三回総会に出席。 ■8月13日 由利郡由利町「尾留川安彦銅像(建立顧問)除幕式」出席。 ■秋 大同郡高句麗古墳高山里(七基の内九号墳は四神図壁画)安静里・西綺里(5基)を発掘調査。 |
1938年(昭和13年・61歳) | ■秋 満州国通化省輯安県高句麗古墳四神塚壁画調査。翌1939年秋も継続調鉦模写作業を行う。 |
1939年(昭和14年・62歳) | ■2月18日 サンフランシスコ金門万国博覧会(美術館)に『宝相華紋画甎』出品。 ■9月22日 『法隆寺再建論を賛して喜田博士に献ず』を執筆。(以可留我・十別号に掲載) ■11月 朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存委員会第五回総会に出席。 |
1940年(昭和15年・63歳) | ■2月 京都貴船神社調査。 ■10月 東京美術学校々友会誌第19号に『学生生活・図案科想い出』を投稿。 |
1941年(昭和16年・64歳) | ■2月24日 遺蹟調査報告書『慶州南山 の仏蹟』発刊。(小場の学術調査報告書第二号となる) ■4月 母の50回忌に当たり、菩提寺安養山光明寺の小場家墓所を整備し、「小場家代々」と篆書を以て自筆の塔婆型墓標を建立して供養す。 ■5月中旬 中和郡高句麗古墳東明王陵付近真坡里― ・ 四号墳壁画調査模写。 ( 非常に危険な情勢下に単身六月末まで古墳の壁画模写を行う。 これが朝鮮に於ける最後の古墳壁画模写作業となる ) |
1942年(昭和17年・65歳) | ■10月4日 東京美術学校長から25年勤続感謝状を受ける。 |
1943年(昭和18年・67歳) | ■高句麗古墳壁画研究で西日本新聞社より文化賞を受賞。 |
1945年(昭和20年・68歳) | ■5月8日 京城・馬洞・平壌に出張。黄海道鳳山高句麗鵂鶹山城遺蹟実測調査。( 8月1日束京に帰る) |
1946年(昭和21年・69歳) | ■12月24日 東京美術学校工芸科主任教授就任。 |
1948年(昭和23年・71歳) | ■7月中旬 明治31(1898)年田沢湖で描いた国鱒(木尻鱒)を精写して赤川菊村 に贈る。 |
1949年(昭和24年・72歳) | ■6月30日 東京藝術大学教授就任。 ■10月3日
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1950年(昭和25年・73歳) | ■5月29日 『日本の紋様研究』に依り第一回日本芸術院恩賜賞を受賞。 ■8月 日光二社一寺文化財保存会専門委員に嘱託。 12日委員会出席のため日光へ。 ■8月18日 佐竹義堯公銅像復活で小像(原型)の厨子設計、仮の木製厨子に安置なった状況を視察。 |
1951年(昭和26年・74歳) | ■3月 台東区章制定審査委員に嘱託 ■4月9日 法隆寺国宝保存委員会専門審議委員に委嘱 。 ■5月24日
■8月20日 法隆寺国宝保存委員会、同寺本坊にて開催出席。 |
1952年(昭和27年・75歳) | ■2月18日 東京藝術大学評議委員に委嘱。 ■3月31日 東京藝術大学を退官。 ■7月24日 法隆寺金堂・東大寺法華堂・平等院鳳凰堂彩色紋様調査。 ■8月4日 平等院にて山崎昭二郎と半年ぶりで再会。国宝梵鐘の拓影に自作の漢詩「宇治回顧九首」の中から二・七の二首を添書きして贈る。 ■10月 岡山県吉備大和村妙本寺・京都大徳寺唐門・山崎同道し て平等院鳳凰堂調査。 |
1953年(昭和28年・76歳) | ■1月
■8月13日 法隆寺金堂・薬師寺・東大寺法華堂・平等院鳳凰堂彩色紋様調査。 ■9月23日 佐竹公銅像石造厨子に安置して再建なった状況視察のため秋田へ。 |
1954年(昭和29年・77歳) | ■5月14日 日光文化財彩色委員会出席のため日光へ。 ■7月8日 同上(於・芝の晩翠軒) ■8月27日 法隆寺金堂天蓋・高野山建築装飾紋様調査。(9月17日帰宅) ■10月4日
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1955年(昭和30年・78歳) | ■7月16日 日光輪王寺拝殿上棟式参列。彩色扉下絵持参。 ■9月26日 平等院鳳凰堂装飾紋様復元作業状況視察指導。 ■11月8日 上醍醐寺調査。漢詩『途上上醍醐寺』二首作詞。 ■11月13日 奈良榮山寺調査。 ■11月16日 紫綬褒章受賞。(長男晴夫が代理出席) ■12月9日 内閣官房長官根本龍太郎から礼状。(紫綬褒章賞状の内閣の印改善提言に対して) |
1956年(昭和31年・79歳) | ■10月 醍醐寺五重塔装飾紋様復元作業始まる。 (小場病気のため山崎昭二郎が現地作業主任として専従。33年7月完成) ■11月8日 奈良国立博物館主催『小場恒吉筆・東大寺法華堂仏像模様展』(12月9日迄開催) 法華堂(三月堂)内の仏像群の彩色紋様を模写復元した57点を展示。 ■11月10日 小場恒吉を囲む公開座談会『東大寺法華堂諸仏の彩色紋様を中心として』奈良博にて。 ■11月11日 醍醐寺五重塔装飾紋様復元に就いて指導。( 22日帰宅 ) |
1957年(昭和32年・80歳) | ■1月7日 神田駅で転んで怪我、 血圧200 絶対安静を宣告される。 ■3月1日 『日本文化財No.23 平等院修理落慶特集号』(文化財保護委員会監修 ・(財)奉仕会出版部刊行)に請われて《鳳凰堂装飾文様に就いて》と題して寄稿。 ■3月20日 平等院鳳凰堂修復落慶。小場は病欠、同院から感謝状を受ける。 ■5月16日 日光牡丹紋彩色点検のため日光へ。(夫人同伴、18日帰宅) |
1958年(昭和33年・81歳) | ■5月29日 東京都中野区江古田3丁目741番地に於いて逝去。 諡号 文昭院常恒顕彰大居士 法隆寺管首 佐伯良謙師から贈られる。 |
1959年(昭和34年) | ■4月2日 妻トヨ中野区江古田(現江原町)の自宅で没す。享年71。 ■10月11日 菩提寺安養山光明寺の先塋に共に埋葬。 |