2号墳出土 金銅釦漆盤(小場は「漆塗リ皿」という
朝鮮総督府『楽浪郡時代の遺蹟図版上』
1925、60‐1
小場復元模写
高句麗の王都であった北朝鮮のピョンヤン付近と中国吉林省集安市には、これまでに100基を超える高句麗の壁画古墳が発見されている。そのうち20数基が2007年に世界遺産に登録された。
壁画古墳は1912年に初めて関野貞(東京帝国大学工科大学助教授)により学術調査されたが、その時に小場(東京美術学校図案科助教授)は同行し、江西大墓と江西中墓の彩色壁画を模写した。
玄武や朱雀などの動物や唐草文・忍冬文のような図案が描かれて、小場も興味を魅かれた。それ以後、高句麗壁画古墳が調査されると小場は模写を担当し、1941年までに約20基の壁画古墳の模写を行った。当時はカラー写真の技術は無く、模写がカラー画像を記録する唯一の手段であった。
小場が模写した壁画古墳は、江西大墓、江西中墓、肝城里蓮華塚、双楹塚、安城洞大塚、星塚、鎧塚、湖南里四神塚、天王地神塚、内里1号墳、高山里9号墳、真坡里1号墳、真坡里4号墳、通溝四神塚などがある。
玄武は亀に蛇が絡みつき、中央で亀と蛇の顔が向い合っている画像である。1912年の模写と2004年の写真を比べると、色彩は全体に退色し、亀の甲羅は六角形の繋ぎから縦線のみが残る。100年の間にこれだけ変化していることが分かり、模写で記録することの重要性を教えてくれる。
小場によると、玄武は日本絵の具で描いたが、背景の石面やその汚れは水彩絵の具を膠で溶いて描いたという。限られた時間での模写作成の工夫といえよう。
さらに模写の心得として、現代的未練から離れて、原作品が制作された当時の気分に立ち帰って、その前後の歴史や技術の特徴も知らなければならないという。現代的未練とは、作家が上手すぎて模写に個性が出て個人の作品になってしまうことをいう。
小場が模写した壁画古墳は、江西大墓、江西中墓、肝城里蓮華塚、双楹塚、安城洞大塚、星塚、鎧塚、湖南里四神塚、天王地神塚、内里1号墳、高山里9号墳、真坡里1号墳、真坡里4号墳、通溝四神塚などがある。
楽浪の古墳は1909年に関野貞が初めて発掘し、その後も継続的に行われた。小場も1916年に東京美術学校を退職して朝鮮総督府博物館嘱託となり、関野貞とともにピョンヤンにある楽浪古墳の発掘調査に参加した。
ここでは、発掘とともに平板測量も担当し、まさに考古学者であった。
小川敬吉、野守健とともに全部で10基の木槨墳、塼室墳を調査し、そこからは多くの漆器が出土した。
漆器には巧妙な蔓草、鳥獣、幾何模様が描かれ、工芸図案家にとって稀有な資料であることから、甲墳(2号)、乙墳(3号)、丙墳(6号)、丁墳(9号)の4基から出土した15点の漆器を模写して『楽浪時代漆器模様図解』を作り、東京美術学校に納めた。
漆器は破片や変形した状態での発見が多くあるが、小場は器の元の形を図上で復元して採色した模様を描いている。
側面と上からの見込みを図で表すが、側面図には外面、内面、断面を書き込んでいる。
これは考古学の遺物実測法を採用している。小場の復元模写は高く評価されたようで、朝鮮総督府は下記の古蹟調査委員会で、東京美術学校の六角紫水と小場恒吉に予算を計上して模写図の作成を進めた。
2号墳出土 金銅釦漆盤(小場は「漆塗リ皿」という
朝鮮総督府『楽浪郡時代の遺蹟図版上』
1925、60‐1
小場復元模写
第24回古蹟調査委員会 大正15年6月
「本年度ニ於テハ新タニ漆器ノ文様模写及ビ修補ニ要スル費用ヲ計上セラレタルヲ以テ、其迄ノ権威タル東京美術学校六角教授及小場講師ニ嘱託シテ専心之ニ膺ラシメ形ト文様トノ精細ナル模写図ヲ作成シ将来之ヲ原色版ニ印刷シテ廣ウ江湖ニ紹介シ、工芸美術ノ資料ヲ提供セントス」
図案を専門とする小場は、楽浪漆器の図案化された模様や高句麗古墳壁画の忍冬唐草文に魅せられ、1945年まで精力的に模写を行った。朝鮮での古蹟調査を主導した関野貞は建築史学者であり、様式論から建物の年代を考えるため、時代の特徴的な様式を図案(模様)に求め、これを記録することに努めた。
二人の関心が共通していたことも、小場に模写が任された理由の1つであろう。
【参考文献】
榧本杜人1958「小場先生と朝鮮考古学」『貝塚』第78号、343頁
高橋潔2003「朝鮮古蹟調査における小場恒吉」『考古学史研究』第10号、37-56頁
平山郁夫総監修・早乙女雅博監修2005『高句麗壁画古墳』共同通信社